【渋谷・道玄坂】名の由来を深掘り!隠された歴史と地形の秘密

道玄坂 渋谷駅
道玄坂

渋谷駅を降りてスクランブル交差点を渡ると、多くの人が自然と足を踏み入れる道玄坂。繁華街の象徴であり、若者文化の発信地として知られるこの坂に、あなたはどんなイメージを持っていますか?

実はこの道玄坂、その名前の裏には驚くべき歴史と、渋谷の地形に深く根ざした物語が隠されています。普段何気なく歩いている道の背景にある「なぜ?」を深掘りしてみませんか?この記事を読めば、今日から道玄坂を見る目がきっと変わるはずです。


「道玄坂」って、そもそも何が道玄なの?名前の由来に迫る

まずは核心に迫りましょう。なぜ「道玄坂」という名前になったのか、有力な説はいくつか存在します。

山賊「大和田道玄」が根城にしていた説

最も広く語り継がれているのが、鎌倉時代に活躍した武将、和田義盛の残党で**「大和田道玄」**という名の山賊が、この坂を根城にしていたという説です。当時の道玄坂周辺は、現在のような賑わいとはかけ離れた、人里離れた寂しい場所でした。鬱蒼とした木々が生い茂り、見通しが悪く、旅人にとって危険な場所だったと言われています。

そんな場所だからこそ、山賊が身を隠し、通行人を襲うにはうってつけの隠れ家だったのでしょう。この説は、道玄坂の持つ少し「妖しい」雰囲気や、渋谷がかつては郊外の寂しい場所だったことを色濃く示唆しています。山賊の伝説が、坂の名前にロマンと少しの不穏さを加えているのです。

「道玄庵」という庵があった説

もう一つの有力な説は、この坂の付近に「道玄庵」という名前の庵(小さな寺院)があったとするものです。もしこの庵が実在したとすれば、それは旅人の安全を祈る場所であったり、地域住民の心のよりどころであったりしたのかもしれません。

山賊説のようなドラマチックさはありませんが、人々の信仰や生活と結びついた、より穏やかな由来と言えるでしょう。しかし、この庵の具体的な記録は少なく、伝説の域を出ない部分も多いのが実情です。

「渋谷道玄」という人物が住んでいた説

その昔、この地に「渋谷道玄」という名の有力者が住んでいた、あるいはこの坂一帯を所有していた、という説も存在します。渋谷という地名自体が、鎌倉時代にこの地を治めた渋谷氏に由来すると言われていることを考えると、渋谷氏ゆかりの人物が坂の名前になった可能性もゼロではありません。

いずれにせよ、「道玄」という響きが、昔からこの地と深く結びついていたことがうかがえます。最も広く語られているのは、やはり山賊「大和田道玄」説でしょう。この名前一つで、坂の持つ歴史の重みがグッと増しますよね。


地形から読み解く道玄坂の「なぜ」

道玄坂がなぜこんなに急で、複雑な構造になっているのか?それは渋谷の独特な地形が大きく関係しています。

谷底の渋谷駅と高台へ続く坂道

現在の渋谷駅がある場所は、かつては「すり鉢状」の谷底でした。駅を出て道玄坂を上ると、すぐに高台になっているのがわかるはずです。渋谷は、東側(青山方面)と西側(松濤・神泉方面)を丘に挟まれた「谷」に位置しています。

道玄坂は、この谷底から西側の丘へ上っていく坂道なんです。この高低差こそが、坂の傾斜を生み出し、道玄坂のアップダウンを特徴づけています。

旧河川「渋谷川」の影響と道のカーブ

道玄坂の傾斜や道の複雑なカーブは、かつてこの谷を流れていた旧河川「渋谷川」の流れや、周囲の起伏に富んだ地形に影響を受けて形成されたと考えられます。特に、スクランブル交差点から道玄坂を上り始めると、緩やかに右にカーブしているのがわかるでしょう。

これは、渋谷川の蛇行や、その周辺の自然な地形をなぞるように道が作られた名残とも言われています。川沿いに集落ができ、そこから高台へ向かう道が自然と坂道になった、昔の生活の様子が目に浮かびますね。

交通の要衝としての発展と街道の名残

江戸時代、この道玄坂は甲州街道(大山街道)の出入口の一つとして機能していました。大山街道は、江戸と神奈川県の大山を結ぶ主要な街道で、多くの旅人や物資が行き交った重要なルートです。交通量が増えるにつれて、坂道も整備され、旅籠や茶屋などが立ち並ぶようになりました。

現在の道玄坂が複雑にカーブしているのは、まさにこの「街道」としての地形を色濃く残している証拠と言えます。道玄坂の途中から分岐する「文化村通り」も、この旧大山街道の一部であり、かつての交通の要衝としての面影を今に伝えています。


昔の道玄坂と今の道玄坂:変遷と知られざる顔

時代とともに、道玄坂はどのように姿を変えてきたのでしょうか。

江戸時代~明治時代:静かな宿場町の坂道

江戸時代、道玄坂は現在の賑わいからは想像もつかないほど静かな場所でした。大山街道の宿場町として、旅籠や茶屋が軒を連ね、旅人が一息つく場所として機能していました。しかし、それはあくまで郊外の街道沿いの風景であり、現在の繁華街の姿はまだありませんでした。

明治時代に入っても、その雰囲気は大きく変わらず、渋谷駅が本格的に発展するまでは、ひっそりとした佇まいを見せていました。当時の古地図や絵図を見ると、周囲には田畑が広がり、坂の両脇にはまばらに家が建ち並ぶ程度だったことがわかります。

大正時代~昭和初期:娯楽の街への萌芽

大正時代に入り、鉄道(山手線など)の開通とともに渋谷駅が発展し始めると、道玄坂も徐々に商業地としての顔を見せ始めます。この頃から、映画館やカフェ、レコード店などができ始め、若者が集まる娯楽の街としての萌芽が生まれ始めました。

特に、大正末期から昭和初期にかけては、モダンな文化が花開き、道玄坂もその中心地の一つとして注目され始めました。

戦後~現代:若者文化の発信地、そして巨大繁華街へ

第二次世界大戦後、渋谷は急速な復興と発展を遂げ、道玄坂もその中心として変貌を遂げます。ファッションビルやレコード店、ライブハウスなどが次々とオープンし、若者文化の発信地としての地位を確立しました。

現在では、巨大な商業施設や飲食店がひしめき合い、昼夜を問わず多くの人々で賑わう、日本を代表する繁華街の一つとなっています。しかし、ビルが立ち並ぶ中に、かつての坂道の形状や複雑なカーブはしっかりと残っており、注意深く見るとその歴史を感じることができます。

道玄坂の「裏」の顔:百軒店(ひゃっけんだな)の歴史と今

道玄坂のメインストリートから一本入った場所には、「百軒店(ひゃっけんだな)」と呼ばれるエリアがあります。ここは、大正時代に「百軒の店」が集まる商店街として開発されたのが始まりで、かつては映画館や演芸場、高級料亭などが立ち並ぶ、渋谷随一の歓楽街でした。

戦後はジャズ喫茶やロック喫茶、ライブハウスなどが集まり、サブカルチャーの発信地としても栄えました。現在でも、百軒店には昔ながらの飲食店や、個性的なバー、ライブハウスなどがひしめき合い、メインストリートとは異なる独特のディープな雰囲気を醸し出しています。ここを歩くと、まるでタイムスリップしたかのような気分になり、道玄坂のもう一つの顔、奥深い歴史を感じることができるでしょう。


道玄坂を歩くのがもっと楽しくなる!歴史散策のポイント

道玄坂を訪れた際には、ぜひ以下のポイントに注目して歩いてみましょう。

  • 坂の傾斜を体感する: スクランブル交差点から上り始めると、意外と傾斜があることに気づくはずです。これは、渋谷が「谷」の地形にあることを如実に物語っています。
  • 道のカーブを意識する: まっすぐではない緩やかなカーブは、かつての渋谷川の流れや、旧大山街道の名残です。ビル群の中に、自然な地形が残されていることを感じてみましょう。
  • 道玄坂小路を探索する: メインの道玄坂とは別に、細い「道玄坂小路」があります。こちらは「道玄」が根城にしたという伝説により近い、裏道のような雰囲気です。メインストリートの喧騒から離れて、ひっそりとした歴史の面影を探してみるのも一興です。
  • 百軒店の独特な雰囲気を味わう: 道玄坂のメインストリートから少し入った百軒店エリアは、レトロな看板や個性的な店構えが多く、昔ながらの渋谷の雰囲気を色濃く残しています。昼と夜で表情を変えるこのエリアを散策し、道玄坂の多面性を感じてみてください。
  • 街並みの変化に注目する: 坂の両側で、店構えやビルの雰囲気が微妙に変わるのを感じてみましょう。新しいビルと古い建物が混在する様子は、渋谷の歴史の層そのものです。

まとめ:道玄坂は、渋谷の歴史を語る生き証人

普段、何気なく通り過ぎる道玄坂には、武将の伝説や、地形が生んだ物語、そして時代の変遷がギュッと詰まっています。

この坂が持つ歴史的背景を知ることで、渋谷という街が、単なる流行の最先端だけでなく、深い歴史と文化の上に成り立っていることが見えてくるはずです。

次に道玄坂を歩くときは、ぜひ足元と周囲の風景に目を凝らし、その名の由来となった物語や地形の秘密に思いを馳せてみてください。きっと、いつもの渋谷が、もっと奥深く、魅力的な街に感じられるでしょう。

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